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スラスラと、和歌が出てくるきりゅう様尊敬します❤😊
チームてぃさん、素晴らしい!一条天皇の愛❤️!のところ、サイコーです!
脩子内親王は、それなりに満足していたところ、あるようにも思えました。人って、どれだけ誰かに愛されているのかって大切ですよね。生きるうえで。お母さんは、早くになくなったけれど。お父さん、大切にしてくれたから。それがあったから前向きで(そんな内親王に感じました)いられたと信じたいな。
ドラマの中で実資がセリフを繰り返している場面がいくつもあって気になっていたのですが、日記にも繰り返し書かれているんですね。思わず「へー!」と声が出ました。
❤わかりやすくて良かったー。愉しかつたです。😊
今日は、くーさんが、自分が思っていた疑問をズバッと聞いてくれたので、結構スッキリしました。
定子の短い生涯の理由が、愛し頼りにした夫との間の子の出産というのが悲しいです😢忘れ形見の脩子内親王も自分の人生について深く考えることもあったでしょうが、53歳という生涯を得られたのは、両親にとっても供養になったでしょうね内親王が持っていた枕草子が一番良いものであった、というお話がとても良かったです😊
今日もありがとうございました🙏❣️ 一条天皇も定子も、そして2人の間に生まれて来た子ども達も何故か悲しい運命が‥一条天皇と定子が仲睦まじかっただけに、どうして‥と思ってしまいます😢
妊娠12ヶ月についてググリましたアメリカと中国で12ヶ月以上妊娠して出産した人がいるそうです現代では母子の負担と危険性を考えて薬で陣痛を促進させたり帝王切開で出産しますでも昔は薬も医術もないので自然分娩しかなくて12ヶ月妊娠していた人もいたかもしれませんね妊娠した時期もはっきり断定できないこともあるかもしれないですね
敦康親王は彰子のところで育てられ、彼を東宮に立てることを彰子は強く望んだが、道長に断られ、道長を恨んだという。当然、彰子は敦康親王にも「枕草子」を読ませていたはずだ。また、脩子内親王が「源氏物語」を読んでいたのと同様、彰子のところには紫式部がいたわけだから、彼も「源氏物語」を読んでいたはず。たぶん、二人とも、「源氏物語」の中に両親の「面影」を探して読んでいたと思う。中関白家が登場する「枕草子」が読み継がれたのは、彰子も(敦康親王の母である)定子を大切に思い、また「憧れ」を持っていたことが大きいのではないだろうか。
あんなに輝いていた定子サロンが、子どもの代になるとこうなってしまうのかと思うと悲しいですね。だからこそ、「枕草子」が尊いです✨いつか機会があったら、奔放に恋に走った内親王のお話も聞いてみたいです❣️🤗
今日のくーさん、ナイス👍✨出家したのに…なぜ???😳で、頭がいっぱいできりゅうさんのお話が入って来なかった😅
定子没後も書き続けられた『枕草子』、花鳥風月の美のほか中関白家の栄華を描いていたのは、(定子を慰めるためだけでなく)みなし子となった脩子内親王に栄光のルーツを説いて励ます意図もあったんじゃないかな。
くーさん質問ありがとうございます♪スッキリしました🙌
定子さんと清少納言、相思相愛じゃないかーっ!❤
孤独な懐妊中の定子様を笑顔にした納言ちゃん良かった😊内親王は本当に愛の結晶なのね~❤
納言ではなく、少納言です。名前ではなく、役職名ですよ。清 少納言と書くと分かるかな!?
@@taka586 ありがとうございます。まだまだわからない事もあるので、教えていただければありがたいです。
待ってました!!😆
今日も分かり易い解説ありがとうございます🤗今回のドラマで枕草子が誕生したシーンは・・・う~んみたいなことだったんですね。枕草子の春はあけぼのから冬はつとめてまで1年間定子さんのお腹の中で一緒に聞いていたかったので12か月いたのでは?🤗
「言わで思ふぞ」~再出仕を迷う清少納言に投げ掛ける、定子さんの有名な「文」のエピソードだけが頭の中に有りましたが、出されたタイミングがまさに中関白家の凋落の極みの時点だったとは・・・知ると感慨ひとしおですね😢ラットさん~きりゅうサンのご指導の賜物。見事に解釈されましたね😉あれよあれよの転落劇に苛まれる定子さん、やっぱり可哀想ですが~脩子内親王のお話を聞いて少し救われた気持ちになりました。母の「定子サロン」を受け継ぐような~「枕草子」伝播を始めとする文化事業の営み・・・私も清少納言が定子にずっと寄り添っていたドラマの描写で全然良かったと思います😃内親王が結婚し難いお話~大変お可哀想に思えましたが、有力貴族の妻になる場合は「臣籍降下」的な意味合いでOKだったのでしょうか❓天皇継承から外れるという意味で・・・
出産予定日より2週間を過ぎると胎盤が劣化してしまい、母子共に危ないと言われ 私の場合は産気つかずに帝王切開となりました 平安時代だったら産めずに死んでたと思う
定子がききょうに対し、逆境の中で生きてこれたのは少納言の文章を読んでいたためと感謝し、ききょうも感極まっていた。中関白家の栄華の時代は過ぎ去ったが、少納言の中にいきいきと残っているのであれば嬉しいという定子の言葉が、まさに”枕草子”の存在理由であり、執筆の原動力であったことを示す美しいセリフだった。史実では山吹の花の手紙をもらった清少納言は感激し定子のもとへ戻った、二人のかけがいのない関係を伺わせる素敵なエピソードだ。彼女が実家に戻るきっかけとなった他の女房との軋轢(道長側のスパイと疑われた)もこの件で一掃され、皆が共に定子サロンを盛り上げていこうと結束することになったというのが、とても素晴らしく感じられる。
今回も学びをありがとうございました😊一条天皇に関してはそこそこ長生きされたと何故か思い込んでいたので是正出来て良かったです。哀しいですけどね😢決められた婚姻の中でそれでも愛し愛された仲で生きられた二人は、その点では幸せに思っていたのかなと願わずにはいられなません😭
道長のもう一人の姉というのがナレーションでいきなり出てきてビックリしました!え?何?誰?って思っている間にシーンが終わってしまいました(笑)
精神的なストレスでお月のものが止まっていて、スタートのカウントが間違えていた可能性はあるかもしれませんね。
そうですよねえ。12月に出産を満期と考えると、ざっくり計算すると、受胎は3月末くらいだし・・・ あ、閏月を考えてないから・・・
枕草子を読んでいると定子は本当に賢い人だったと思いますなかなかこれだけの人はいませんね
昭和の大阪万博生まれですが、私は産婦人科医師が見立てた予定日より1か月オーバーで生まれました。母や親戚は、なかなか産まれなくてとよく話してくれました。母は「妊娠がわかった時、痛いのは嫌だなあと、ずっと思っていたの。だから、産まれるのも遅れたのかも。」と言ってました。のどかな時代です。超音波の普及で正確に出産予定日を割り出せるようになったのは、平成になってからのようですよ。
回転できなかった... ラットさんのお気持ち分かります〜😂 短命の方が多いというのも、政権を複雑にしていたのですよね。みんなが孤独を抱えていたことも、華やかな文化の闇と感じます🤔 長期間生まれない子供!!は、お初な学び。今日もありがとうございます😊
興味深かったです。ドラマの定子と一条帝の純愛、美しいです。源氏の桐壺更衣の、世間のそしりをうけてのくだりなんですね。源氏は当時のリアル読者からしたら、誰もが知ってる事件を思わせ、匂わせが多くあるんですね。今の我々の読み方と違うかも、ですね。昔も今も、身分の貴い方のお話が、皆、噂話でも大好きという事ですね
くーさん鋭い‼️2ヶ月遅れはありえない。
定子が里に下がった時には妊娠していなくって、伊周隆家の許しを一条天皇に請いに参上した時身体の関係があったが出家した定子ちゃんとの関係は完全に内緒事だしね。
今回も解説ありがとうございます。山吹の花、素敵ですね。二人の信頼関係がうかがえます。もしかして定子にとっても清少納言は推しだったのでしょうか。だったら良いなぁ…脩子内親王、いろいろと難しい立場だったのですね。周りも敬して遠ざけるほかなかったのでしょうか。源氏物語が好きだったのも、桐壺帝を通じて父母を偲ぶ気持ちも有ったのでしょうか。枕草子と源氏物語が内親王の孤独を癒す助けとなった事を祈ります。
すごく分かりやすかった✨✨本日も勉強になりました✨🙇📚
中宮定子の子供たちのことは知らなかったのでとても興味深く拝見しました。ドラマでも登場して欲しいです。
いつも楽しく観ています!きりゅうさんが最後に「今は違いますけどね。」と言ってくれてよかった!そんな 時代もあったというだけで、伝統的に結婚してはいけないと、誤解されるのは良くないと思うので。今の女性皇族の子どもは皇族にしない案とか、狂ってる政治のせいで皇位継承問題動かない昨今です。伊勢や加茂の斎宮や斎王も、役目の後は結婚された方が結構いませんでしたっけ?
楽しみ🎉な、時間です。
以前道長のセリフで「女子にとって入内は幸せとは思えぬ」とありましたが、一条天皇と定子さんは超絶愛し合ってるのに本当可哀想です😢今回はいつもお強い詮子女院の「定子やその女子(まひろ)にあって私にない物って何なのかしら?」が切なくも可愛らしかったです。そういえば入内前に三郎くんに「帝のお顔が好みじゃなかったらどうしよう…」と悩んでいたなぁと懐かしく思いました。時折可愛げを見せるところまでお父さん似なのが女院様を憎めないポイントです😌💛
入内前の詮子さま、可愛かったですよね。道長に「私にないものは何かしら?」って聞いたときの詮子さまも。
確かに。鋭いところと人間的な可愛らしいところ、兼家さまによく似てらっしゃいますね!
一条帝と定子の純愛を楽しみましょう。詮子が帝に愛されなかった理由は道兼が、帝に恨まれ、憎まれたから。同じ事が、彰子にもあるんだろ。詮子とは状況が違うが、一条帝の気持ちはそえ変わらんだろう。
一条帝は表面は左大臣道長を立ていたが、本心は嫌いだし、憎んでいたし。
きりゅうさんには山吹の花が似合う。
皆聞いたこと忘れちゃうと思うけど 今は理解しました!
24:27 個人的には、当時、皇位継承権の問題について物議をかもす余地があった可能性は低いと思います。 日本の天皇は男系の皇統であり、つまりどの天皇(たとえ女性の天皇)であっても、父親さらにその父親と先祖をさかのぼれば神武天皇に行きつくというルールがずっと守られてきています。 古来より男系の皇統を維持することが既定路線、当たり前であって、その慣例の元では、内親王の皇子、皇女が天皇になること自体が論外と見做されていたと私は思います。
今日も楽しい予習解説ありがとうございます🤩脩子内親王のお話、初めて知ることも多くて勉強になりました。今のところ敦康親王もキャスト発表がないですし、脩子内親王もドラマに出てきてくれるのか気になるところですね👀👀脩子内親王としては複雑かもしれませんが、彰子さまはきっと気にかけてはいたと思うのでもしもドラマで源氏物語を通した二人の雪解けがあったりしたら、私は泣いてしまうかもしれないです😭そして推しの菅原孝標女の話題があがり、嬉しくて思わずコメントしてしまいました😂現代を生きるオタクとして他人とは思えぬシンパシーを感じる平安限界オタク女子の名前が極めたオタク女子のきりゅうさんから聞けてテンションブチ上がりです!!苦し紛れではありますが、寧子ママつながりでなんとかしてドラマに出てくれないかな~😊🙋♀🙋♀
定子ちゃんと一条天皇の子供達の人生も壮大だったとは…清少納言もどんな気持ちで見送ったのでしょう…脩子内親王の人生は謳歌できたと願わずにはいられないです
ほんまやわ、きりゅうさん凄いよね
愛されても、愛されなくても辛いですね😢今後が楽しみです(*^^*)💕
私は3人の息子共に予定日から遅れ、長男は超ど1ヶ月遅れで産まれました。月🌕ものが40日周期というのもあったと思います。シワのない完熟児3560g!
きりゅーさん。こんばんは😃🌃いつも、楽しく見てます❤妊娠、12か月は、医学的には、無いです😅私は、看護師です😃だから、あり得ませんよね😅平安時代の、一月が、何日か、分かりませんが、現在では、40週を超えると、陣痛促進剤を使うか、帝王切開です😅因みに、妊娠の週は、一月は、ゼロ、1、2、3、で、一月です😮
私もそう思いました。脩子内親王は定子中宮の出家後に授かったお子様なのではと推察します。
じゃあ、一条天皇の子では無い……???😢
人の妊娠期間は280日、つまり9ヶ月と10日。それを十月十日と言ったのは、0が無かったから?閏月もあって、一年が13ヶ月だったりすることもあった暦なら、足掛け12ヶ月くらいなら、なくもなかったりしませんか?
第15代応神天皇(誉田別尊)とその母神功皇后の三韓征伐での出産をコントロールした話し等昔より皇室には出生に関する不可思議話しが伝わっていることが多い気がしますね😮
内親王ともなると釣り合う身分の男子はそうそうは居ないのでそりゃ結婚しにくいですわな。今もそれに近いし。
私の兄は予定日より2週間以上遅れたそうです。お腹の中で兄が大きくなりすぎて、普通分娩では産めず、帝王切開になり、更に母は1週間集中治療室で意識がなかったと。幸いなことに、兄は元気だったので兄は先に退院して祖母が面倒を見てくれたそうです。その出産の恐怖から私を妊娠した時、産むかどうか凄い迷ったと言ってました😂平安時代ならもっと大変そう。定子様は3人目の子供を出産時に亡くなったみたいですが、元々難産体質なんですかねぇ〜(そんな体質あるのかしりませんが😂)
いつも楽しくお勉強をさせて頂いてます❤あの~今でも女性の生理って日数も周期も個人差があったりまた不順だったりもするので昔は正確な産月は分からなかったのではないかと思うのです中宮彰子は敦康親王を大事にしていたし中関白家にも気を使ってたと聞いたことがあるので脩子内親王が隆家の方に行ったと知った事はそんな軋轢が続くもんなのか、と思いましたまぁ、知らなくて良いような余計な情報も入ってきたでしょうけど…
チャンネル登録しました😊歴史上の人物を、まるで知り合いのように思いやるやりとりが最高です❤
‼️ビックリした‼️内親王の結婚問題現代にもあるじゃ無いですか?表向きは、自由と言っていても・・・的な
子供の産み月の問題、まさに『源氏物語』内にもありますよね。宿下り中の藤壺を光源氏が妊娠させてしまい、内裏にいた時の妊娠という事にするけど、中々生まれなくて怪しまれてしまうという。物怪の仕業という事で有耶無耶で終わってしまったのが何とも平安時代らしいなと思っていましたが、これも元になった宮中での噂やエピソードが実際にありそうな気がします。
遅くに産まれて…は弁慶ですよね。定子さんはストレスで生理不順になって産み月の計算が?だったのかも知れませんね
色々調べていたら生理は穢れとされて、月経中は宮中に上がれなかった。と言うのを見つけたのですが、それは中宮も同じ?だとすると、定子の宿下がりは懐妊は流言飛語か誤認で、実は月経だった?あとは出生日が真実だとすると、受胎が5月初め(旧暦)。宿下がりの理由が本当に懐妊だったとすると、流産した後すぐに妊娠した可能性も・・・。妊娠期間12か月と言うのは、事実誤認か明かせない事情、記録自体に何らかの意図があると思いました。一条天皇が溺愛したくらいだから自分の子だと確信があるのだろうし、掟破りで忍んで逢ったのかも。なんて思いました。
海外とかでも妊娠期間を長く言うのは親の愛情と聞いたことが有りますし、仲が良すぎても子どもが出来づらいと聞いたことが有るので分からないですよね~(笑)ちょくちょく一条天皇が来ていたから、後者に1票です(笑)❤
定子が内裏から下がった正確な日付がわかりませんが、少なくとも長徳の変が起きた日から脩子内親王の生年月日の間は355日(たしかに妊娠12ヶ月目と捉えることができる)も開いているので、動画内で仰っている通り、実際は西暦996年4月頃(長徳の変から二ヶ月ほど後)、実家に戻ってからの懐妊だったんじゃないかと思います。平安時代の暦は現代と考え方が違うし、日本紀略に書かれている「懐孕十二ヶ月」が妊娠期間としての12ヶ月(仮に満12ヶ月だとして336日)なのか、暦の12ヶ月間(約一年)なのかはわかりませんが、いずれにしても12ヶ月は長すぎます。初産で予定日を超過するのはぜんぜん珍しくないですが、別の方が仰っている通り胎盤機能の低下(赤ちゃんに栄養が届きにくくなる→赤ちゃんの状態が悪くなると羊水の中で便をしてしまう→分娩時に吸い込むと呼吸状態が悪くなることがある)とか、あと赤ちゃんが大きくなるので分娩時に肩が引っかかって腕の神経を損傷する、などの色んなリスクがあります。そうならないように、だいたい分娩予定日を2週ほど超過したら誘発や帝王切開などが必要になります。平安時代にそんな処置無かったと思うので12ヶ月もお腹にいて生きて産まれてくる可能性はほぼないと思います。
実資さんの出家したのに…出家したのに…と愚痴り出してからの日記にお書きにと鬱陶しがられるシーンあって欲しいw
源氏物語の藤壺の宮も予定をかなり遅れて生んでますね。結局天皇の子ではなかったですが。
私は生理不順で妊娠発覚2ヶ月前から生理が無く、出産予定日が10月の末くらいから11月の中頃と言われました💧そして11月中頃に出産しましたが何日遅れたのか分からなかったです💧
脩子内親王にとって枕草子は父母を偲ぶ形見のような存在だったのかもしれませんね…気の毒な事にたぶん道長さんにとっては「大人の事情」で生まれてほしくなかった三人だったと思います。
動画は編集して文字や家系図を出してくれるから理解できるけど、歴史を全く知らない私がもしく〜さんやラットさんと同じようにきりゅうさんのお話をいきなり聞いたとしたら登場人物の関係性など理解するのは難しいでしょう😅ドラマのおかげで俳優さんに置き換えられるので(実資=秋山さん)この先の話もそう脳内で変換すると思います😁く〜さんの定子さんが出家したのに後々子供ができるという疑問、同じくですきっと今後ドラマで描かれるでしょうから楽しみです❤ふと、眞子さまが結婚して皇室を離脱されましたが清子様とは違う離脱で、平安時代なら出家に近いのかなと勝手に想像してしまいましたあと、脩子内親王が12ヶ月で産まれた特殊な子というより、特殊な子と周りがしたくて…. という事はないかな?記録に残っているならそれはないですね😅毎回長文コメントすみません🙇♀️また次回も楽しみにしております❤
今回も楽しく勉強させていただきました!私も昭和生まれですが、予定日より1ヶ月近く経っても陣痛が来なかったので促進剤で産まれたと母から聞きました。医師から最終生理開始日を間違っているのではないかと言われたそうです笑出生時の体重は普通。やはり母の勘違い?でも稀にありそうですよね。
毎回の動画、ほんとに楽しく観ています😊今回の動画とは関係ないのですが、メンバーシップになるには、どうしたらいいのでしょうか?チャンネル登録とは別ですよね?
動画の下の「メンバーになる」をクリックしていただければ……
直々に返信、ありがとうございます❤やってみます✨
妄想アラート好き
脩子内親王は母定子に似ていますね若い頃に両親と弟妹を亡くて出家して不運な中でも文化的な事に精通して心豊かな余生を過ごされたのでしょうか
内親王が独身を貫くことが多かった件ですが....単に身分の高さと教養の釣り合うお相手を見つけることは難しかったのでは?多制度であったから、お相手の男子も気位高くお育ちになった内親王が妻だと妾も持ち辛いとか色々あったのでは!?いとこ位の親戚なら恋愛とかできるかも。でも、近しい親戚でもなければ内親王に恋愛の文を送る勇気ある人って?いたんでしょうか?!
ジャッキーチェンが12ヶ月お母さんのお腹の中にいて生まれたって聞いたことがあります。
確かジャッキーチェンもお母さんのお腹の中に12ヶ月いて、出生体重が5680グラムもあったとか😂
私がお産した時(20年前)は、妊娠41週6日(予定日から2週間)までに産んだ方が良いと言われましたが、お産が進まず入院して促進剤を打ち、42週目にようやく生まれました。当時、妊娠10ヶ月の妊婦健診で医師がエコーを見ながら「胎盤が光ってるな…」と呟いてて意味がわからなかったの帰宅後に調べたら、「胎盤が退化してくるとエコーで光って見える」ということがわかって、お腹の子は大丈夫なのか⁈とすごく不安になりました。でもよく考えたら、お腹の中でじゅうぶんに育ったから胎盤が退化するんだろうと思うので、その目安が41週までなんでしょうね。42週以降は罹病率、死亡率が高くなると考えられているのに、昔の物語では2年も3年経ってから生まれるというのはやっぱり特殊な子と思われても仕方ないかもですね。我が子42週目に生まれましたが、スクスク育ち今は大学生です。
脩子内親王は早くに肉親を皆失い、家族関係では孤独だったろう。内親王でも結婚している人はいるので、やはり後ろ盾のない境遇というのは、辛いなあとも感じる。29歳で出家し53歳で亡くなる間の文化的生活が、少しでも彼女の寂しさを紛らしてくれたらと思う。脩子内親王とは裏腹に、倫子は今回も大活躍だった。帝と新女御の親睦会開催を企画するバイタリティには強かさとは違う生きがい感も見受けられ、さすがの道長も感心しながらも敵わないなあという感じで接していた。道長の意中の人を知ってしまったら、どんな反応を示すか(狼狽えつつも如才なく対して、本音を隠し策を練るに1票!)今から楽しみだ!!
更級日記の作者菅原孝標女の親戚がこの脩子内親王に仕えていて、そこから孝標女は貴重な書籍を借りていたとは、平安時代の貴族の世界は意外と狭いですね!
いつも楽しく拝見させていただいております。12:26のテロップに誤りがありましたのでお知らせいたします。(誤)966年→(正)996年きりゅうさんの話、本当に勉強になります。応援しています。
最近見始めて、きりゅうさんのお話がとても面白いので登録しました✨
今も継承権問題で、内親王結婚したらもう皇籍じゃなくなりますよね。それはどうかなと思いますが…継承人が少ない今内親王の子供でもいいじゃないかとは思うけど色々ややこしいよね。
今回も勉強になりました!内親王は生涯独身、生まれは逆境ながら、脩子内親王は賢く生き抜かれたんですね。内親王と言えば、源氏物語のボーッとした女三宮を思い出しますが、一条天皇も物語の朱雀院並みに、この宮の心配をしたんでしょうか。
更級日記で源氏物語もらって喜ぶくだりは高校の古典の授業でやったので覚えてます仏像作って源氏物語ゲットを祈るってなんやそれって思ってましたけど、このチャンネルで平安時代の話聞いてたらそんなこともあるのかもなと思い始めてます笑
今回、定子ちゃんが、出産前日に、清少納言と一緒に、白い服でしたが、あれは、もう出産に備えての白い着物?喪中開け近くで限りなく鈍色が白に近づいたのかと思いました。
最初思っていたききょうさんと違う今のききょうさん。最初の登場から今の姿は想像できませんでした。定子は何一つ悪い事してないのに出家するほど世の中に失望するなんてほんとにかわいそうだなと思いました。そのかたわらで道長妻の倫子さんみたいな人はほんとに運が強いとしか思えません。
く~さんの質問のおかげで私もスッキリしました(*'ω'*)
一条天皇は定子愛おしさ💕のあまり,出家しても定子の元に通い3人の皇子女👑👶👶👶をもうけましたが,残念ながら定子は3人目のお産で亡くなってしまったので,もし一条天皇が出家した定子さんをそっとしておいたら,世間からの猛批判にもさらされずにもう少し長生きできたのかも?と思うと…定子さん可哀想な気がします。
産み月が長引くということは生まれる子供もその分だけ成長するということなので、帝王切開などをしないと生まれてこれないです。平安時代は医療が未発達なのでご懐妊の判断が間違った可能性はあります。参考になれば幸いです。
修学院に住んでた内親王も確か、独身で、父親に溺愛されてて風流な生活を送っていたのではなかったでしたっけ? 昔修学院を訪れた時に、ガイドの方がおっしゃっていたような、、、
はんにゃ金田さんのRUclips見ましたか?ゲスト松村邦洋さんで、今回なかなか面白い❗️かしましさんと合わせて見たらメチャ面白いと思いました。解説楽しみにしてます🙏
今回のお話しもとても勉強になりました。きりゆうさんの後ろネコちゃんの写真、ゆうくんですか?
今回も楽しく拝見しました。12:26頃の定子の出家した年の説明文が966年になっていますよ。(きりゅうさんのお話や字幕は996年。)
ご指摘ありがとうございます!
あの時=一度内裏から下げられた定子が、道長が手引きしてくれたのでこっそり内裏に戻れた時、というわけで、その結果定子の懐妊につながったわけで、だから道長は帝定子に情けをかけてはいけないと思ったんではないかなあ?だんだん道長が帝に対して冷酷になってきましたね。2か月遅れで出産云々というのは、源氏物語で藤壺と光源氏の密通で冷泉天皇が生まれたくだりのヒントになっているのかもしれませんね。内親王はなかなか結婚できない、というのは今の皇室にもあるある、の話だと思いました。
道長が中関白家を追撃?と言うよりは、女院様が息子を奪った定子ちゃんNGと感じましたが、如何でしょうか?でも孫は可愛い❤は、今でも嫁vs姑のエピソードで出てきますが、吉田羊さんがこれを本気で演じたら怖い😱けど見てみたい😅
一条天皇も、定子とその身内を翻弄した原因の一つなんだなと思いました。ドラマの中では、まひろとの恋愛や結婚に関して潔い道長と比べると、一条天皇と定子の二人の様子がグダグダ過ぎて見ていられないです😔
武蔵坊弁慶( 平安末期に誕生 )は、生まれるまで18ヶ月も母の胎内にいたと文献に記されていますね。また、文献によっては3年もという話も。弁慶については、かなり創作が含まれていると言われていますが、脩子内親王の誕生日に関してはきちんと記録が残っていて正確なはずなので不思議ですね?🤔それから、内親王は、源氏物語の女三の宮のように、帝に許されれば結婚できると思っていましたが、違っていたのでなんだかお気の毒です。
内親王の婚姻はともかく、出産はリスクが大きすぎるのでは?当時の婚姻は現在以上に世継ぎを求められるでしょうし。
皆さんが仰っている様に42週以降は羊水の減少や諸々のの原因で児の呼吸障害、巨大児等々リスクが大きくなるので普通分娩は難しいと思いますなのでやはり計算が間違っていたのではないでしょうか?内親王のトコの完全版は、自分の知らない母親の幸せな様子を垣間見れる書として大事に大事に読んでいたと思っています自分も若い頃母親を亡くしているので、笑っている写真を見るだけで泣いてしまいますよ
12ヶ月身籠る実例があったかは知りませんが、それを紫式部が知っていたら藤壺の宮の長過ぎる懐妊期間に流用した可能性はありますかね。
いつも分かりやすい説明をありがとうございます!産科にいましたが、42週を過ぎると胎盤が石灰化していました。し、歯が生えて生まれてきたベビーちゃんもたまにいました。生理不順で最終月経が分からないときは、現代はエコーでベビーちゃんを測定して、予定日を計算したり、大腿骨の長さで、予定日修正したりしていましたよ。でも、意外と人によっては胎盤も劣化しないでそのまま産める可能性もあるのでは?と思いました。。
父親違う説を是非推したいです、新しい発見でした
生まれるまでに12ヶ月…いやいや驚いてはいけません.釈迦は3年3月、老子はなんと80年…😲(コレは落語の世界ですが)
山吹の花は実がならない事(成就しない)で使われると聞いた事があったので、別れを示してるのかと思いきや、、、山吹→お坊様→梔子色→口無し、、、すごい!!と思いました!定子様はもしかしたらどっちでも取れるように送ったけど、教養の深い清少納言なら読み取ってくれると思って送ったのかなぁと思いました。それにしても平安貴族すごいなぁ、お馬鹿な私には絶対生きていけない世界だわ😂
昔は閏月があったと聞きます。もしかすると1ヶ月が今より短いということはないでしょうか?それを含めて計算したうえでの12ヶ月でしょうか?
きりゅうさんにお聞きしたいのですが上品、下品という言葉はその一品、二品が基になってる言葉ですか?
たしか仏教用語だったと思います。死後に極楽浄土に行くパターンにいろんなランクがある、ということだったかと。
「玉のような」は男の子にかかる言葉ですね。
血統の貴重性を高めるためもあって、奈良時代くらいまでは「女性皇族の結婚相手は天皇か皇族のみ」と制限されていたようですね。 臣下と結婚した場合、天皇も父親としては大事な娘の婿や子ども(孫)を蔑ろにはできないし、それを利用して好き勝手する者が出てきたら厄介だしで、内親王の結婚制限はトラブル防止の意味もあったのかなと思います🤔ちなみに、道長の祖父である藤原師輔には内親王が3人も降嫁されていたから驚き😮三条天皇が出てるなら、その皇女の当子内親王(伊勢斎宮)と藤原道雅(伊周の息子)も出てこないかなとワクワクしてます😊
道雅エピは出してほしいですね~💖
師輔と康子内親王の場合は、大鏡だと妊娠発覚からの結婚です。村上天皇は同母の姉を結婚させるつもりはありませんでした。仕方なく認めました。
内親王は生涯独身の方が多いと言うお話でしたが、源氏物語の中の藤壺の女御は、先帝の四ノ宮だった気がするのですが、藤壺の女御のように入内する方もいたんですか?何か、理由があるのかなぁと、ふと思いました!いつか追って沙汰してください😂
後見人がしっかりしてれば、独身を貫く事が多かったようですが、源氏物語の柏木の未亡人女ニ宮に夕霧との縁談我きた時に彼女の従兄弟(大和守)が「任国に戻らなければならないです。あなた様の面倒はずっとは見られません」と言って夕霧との縁談を進める。女ニノ宮のような内親王でも立場の弱い女性は、結婚したようだ。ちなみに藤壺も母親である后がなくなったので、後見が弱くなり入内した。
入内した人はちょこちょこいますし皇后(中宮)になった人も…これから「光る君へ」にも出てくるんではないでしょうか。結婚する場合、多くは天皇や皇族男子で、特例として藤原氏摂関家、という形。内親王クラスでなく女王(天皇の孫や曾孫とか)クラスの女性だと一般貴族とあまり変わらないようですが。
源氏物語に父親と母親への想いを重ねたりしたのかな
スラスラと、和歌が出てくるきりゅう様尊敬します❤😊
チームてぃさん、素晴らしい!一条天皇の愛❤️!のところ、サイコーです!
脩子内親王は、それなりに満足していたところ、あるようにも思えました。人って、どれだけ誰かに愛されているのかって大切ですよね。生きるうえで。お母さんは、早くになくなったけれど。お父さん、大切にしてくれたから。それがあったから前向きで(そんな内親王に感じました)いられたと信じたいな。
ドラマの中で実資がセリフを繰り返している場面がいくつもあって気になっていたのですが、日記にも繰り返し書かれているんですね。思わず「へー!」と声が出ました。
❤わかりやすくて良かったー。愉しかつたです。😊
今日は、くーさんが、自分が思っていた疑問をズバッと聞いてくれたので、結構スッキリしました。
定子の短い生涯の理由が、愛し頼りにした夫との間の子の出産というのが悲しいです😢
忘れ形見の脩子内親王も自分の人生について深く考えることもあったでしょうが、53歳という生涯を得られたのは、両親にとっても供養になったでしょうね
内親王が持っていた枕草子が一番良いものであった、というお話がとても良かったです😊
今日もありがとうございました🙏❣️ 一条天皇も定子も、そして2人の間に生まれて来た子ども達も何故か悲しい運命が‥一条天皇と定子が仲睦まじかっただけに、どうして‥と思ってしまいます😢
妊娠12ヶ月についてググリました
アメリカと中国で12ヶ月以上妊娠して出産した人がいるそうです
現代では母子の負担と危険性を考えて薬で陣痛を促進させたり帝王切開で出産します
でも昔は薬も医術もないので
自然分娩しかなくて12ヶ月妊娠していた人もいたかも
しれませんね
妊娠した時期もはっきり断定できないこともあるかもしれないですね
敦康親王は彰子のところで育てられ、彼を東宮に立てることを彰子は強く望んだが、道長に断られ、道長を恨んだという。当然、彰子は敦康親王にも「枕草子」を読ませていたはずだ。
また、脩子内親王が「源氏物語」を読んでいたのと同様、彰子のところには紫式部がいたわけだから、彼も「源氏物語」を読んでいたはず。
たぶん、二人とも、「源氏物語」の中に両親の「面影」を探して読んでいたと思う。
中関白家が登場する「枕草子」が読み継がれたのは、彰子も(敦康親王の母である)定子を大切に思い、また「憧れ」を持っていたことが大きいのではないだろうか。
あんなに輝いていた定子サロンが、子どもの代になるとこうなってしまうのかと思うと悲しいですね。だからこそ、「枕草子」が尊いです✨
いつか機会があったら、奔放に恋に走った内親王のお話も聞いてみたいです❣️🤗
今日のくーさん、ナイス👍✨
出家したのに…なぜ???😳で、頭がいっぱいできりゅうさんのお話が入って来なかった😅
定子没後も書き続けられた『枕草子』、花鳥風月の美のほか中関白家の栄華を描いていたのは、(定子を慰めるためだけでなく)みなし子となった脩子内親王に栄光のルーツを説いて励ます意図もあったんじゃないかな。
くーさん質問ありがとうございます♪
スッキリしました🙌
定子さんと清少納言、相思相愛じゃないかーっ!❤
孤独な懐妊中の定子様を笑顔にした納言ちゃん良かった😊内親王は本当に愛の結晶なのね~❤
納言ではなく、少納言です。名前ではなく、役職名ですよ。清 少納言と書くと分かるかな!?
@@taka586 ありがとうございます。まだまだわからない事もあるので、教えていただければありがたいです。
待ってました!!😆
今日も分かり易い解説ありがとうございます🤗今回のドラマで枕草子が誕生したシーンは・・・う~んみたいなことだったんですね。枕草子の春はあけぼのから冬はつとめてまで1年間定子さんのお腹の中で一緒に聞いていたかったので12か月いたのでは?🤗
「言わで思ふぞ」~再出仕を迷う清少納言に投げ掛ける、定子さんの有名な「文」のエピソードだけが頭の中に有りましたが、出されたタイミングがまさに中関白家の凋落の極みの時点だったとは・・・知ると感慨ひとしおですね😢ラットさん~きりゅうサンのご指導の賜物。見事に解釈されましたね😉あれよあれよの転落劇に苛まれる定子さん、やっぱり可哀想ですが~脩子内親王のお話を聞いて少し救われた気持ちになりました。母の「定子サロン」を受け継ぐような~「枕草子」伝播を始めとする文化事業の営み・・・
私も清少納言が定子にずっと寄り添っていたドラマの描写で全然良かったと思います😃内親王が結婚し難いお話~大変お可哀想に思えましたが、有力貴族の妻になる場合は「臣籍降下」的な意味合いでOKだったのでしょうか❓天皇継承から外れるという意味で・・・
出産予定日より2週間を過ぎると胎盤が劣化してしまい、母子共に危ないと言われ 私の場合は産気つかずに帝王切開となりました 平安時代だったら産めずに死んでたと思う
定子がききょうに対し、逆境の中で生きてこれたのは少納言の文章を読んでいたためと感謝し、ききょうも感極まっていた。中関白家の栄華の時代は過ぎ去ったが、少納言の中にいきいきと残っているのであれば嬉しいという定子の言葉が、まさに”枕草子”の存在理由であり、執筆の原動力であったことを示す美しいセリフだった。
史実では山吹の花の手紙をもらった清少納言は感激し定子のもとへ戻った、二人のかけがいのない関係を伺わせる素敵なエピソードだ。彼女が実家に戻るきっかけとなった他の女房との軋轢(道長側のスパイと疑われた)もこの件で一掃され、皆が共に定子サロンを盛り上げていこうと結束することになったというのが、とても素晴らしく感じられる。
今回も学びをありがとうございました😊
一条天皇に関してはそこそこ長生きされたと何故か思い込んでいたので是正出来て良かったです。哀しいですけどね😢決められた婚姻の中でそれでも愛し愛された仲で生きられた二人は、その点では幸せに思っていたのかなと願わずにはいられなません😭
道長のもう一人の姉というのがナレーションでいきなり出てきてビックリしました!
え?何?誰?って思っている間にシーンが終わってしまいました(笑)
精神的なストレスでお月のものが止まっていて、スタートのカウントが間違えていた可能性はあるかもしれませんね。
そうですよねえ。12月に出産を満期と考えると、ざっくり計算すると、受胎は3月末くらいだし・・・ あ、閏月を考えてないから・・・
枕草子を読んでいると
定子は本当に賢い人だったと思います
なかなかこれだけの人はいませんね
昭和の大阪万博生まれですが、私は産婦人科医師が見立てた予定日より1か月オーバーで生まれました。母や親戚は、なかなか産まれなくてとよく話してくれました。母は「妊娠がわかった時、痛いのは嫌だなあと、ずっと思っていたの。だから、産まれるのも遅れたのかも。」と言ってました。のどかな時代です。
超音波の普及で正確に出産予定日を割り出せるようになったのは、平成になってからのようですよ。
回転できなかった... ラットさんのお気持ち分かります〜😂 短命の方が多いというのも、政権を複雑にしていたのですよね。みんなが孤独を抱えていたことも、華やかな文化の闇と感じます🤔 長期間生まれない子供!!は、お初な学び。今日もありがとうございます😊
興味深かったです。ドラマの定子と一条帝の純愛、美しいです。源氏の桐壺更衣の、世間のそしりをうけてのくだりなんですね。源氏は当時のリアル読者からしたら、誰もが知ってる事件を思わせ、匂わせが多くあるんですね。今の我々の読み方と違うかも、ですね。昔も今も、身分の貴い方のお話が、皆、噂話でも大好きという事ですね
くーさん
鋭い‼️
2ヶ月遅れはありえない。
定子が里に下がった時には妊娠していなくって、伊周隆家の許しを一条天皇に請いに参上した時身体の関係があったが出家した定子ちゃんとの関係は完全に内緒事だしね。
今回も解説ありがとうございます。
山吹の花、素敵ですね。二人の信頼関係がうかがえます。もしかして定子にとっても清少納言は推しだったのでしょうか。だったら良いなぁ…
脩子内親王、いろいろと難しい立場だったのですね。周りも敬して遠ざけるほかなかったのでしょうか。源氏物語が好きだったのも、桐壺帝を通じて父母を偲ぶ気持ちも有ったのでしょうか。枕草子と源氏物語が内親王の孤独を癒す助けとなった事を祈ります。
すごく分かりやすかった✨✨本日も勉強になりました✨🙇📚
中宮定子の子供たちのことは知らなかったのでとても興味深く拝見しました。
ドラマでも登場して欲しいです。
いつも楽しく観ています!
きりゅうさんが最後に「今は違いますけどね。」と言ってくれてよかった!そんな 時代もあったというだけで、伝統的に結婚してはいけないと、誤解されるのは良くないと思うので。
今の女性皇族の子どもは皇族にしない案とか、狂ってる政治のせいで皇位継承問題動かない昨今です。
伊勢や加茂の斎宮や斎王も、役目の後は結婚された方が結構いませんでしたっけ?
楽しみ🎉な、時間です。
以前道長のセリフで「女子にとって入内は幸せとは思えぬ」とありましたが、一条天皇と定子さんは超絶愛し合ってるのに本当可哀想です😢
今回はいつもお強い詮子女院の「定子やその女子(まひろ)にあって私にない物って何なのかしら?」が切なくも可愛らしかったです。
そういえば入内前に三郎くんに「帝のお顔が好みじゃなかったらどうしよう…」と悩んでいたなぁと懐かしく思いました。
時折可愛げを見せるところまでお父さん似なのが女院様を憎めないポイントです😌💛
入内前の詮子さま、可愛かったですよね。道長に「私にないものは何かしら?」って聞いたときの詮子さまも。
確かに。鋭いところと人間的な可愛らしいところ、兼家さまによく似てらっしゃいますね!
一条帝と定子の純愛を楽しみましょう。
詮子が帝に愛されなかった理由は道兼が、帝に恨まれ、憎まれたから。同じ事が、彰子にもあるんだろ。
詮子とは状況が違うが、一条帝の気持ちはそえ変わらんだろう。
一条帝は表面は左大臣道長を立ていたが、本心は嫌いだし、憎んでいたし。
きりゅうさんには山吹の花が似合う。
皆聞いたこと忘れちゃうと思うけど 今は理解しました!
24:27 個人的には、当時、皇位継承権の問題について物議をかもす余地があった可能性は低いと思います。
日本の天皇は男系の皇統であり、つまりどの天皇(たとえ女性の天皇)であっても、父親さらにその父親と先祖をさかのぼれば神武天皇に行きつくというルールがずっと守られてきています。
古来より男系の皇統を維持することが既定路線、当たり前であって、その慣例の元では、内親王の皇子、皇女が天皇になること自体が論外と見做されていたと私は思います。
今日も楽しい予習解説ありがとうございます🤩
脩子内親王のお話、初めて知ることも多くて勉強になりました。
今のところ敦康親王もキャスト発表がないですし、脩子内親王もドラマに出てきてくれるのか気になるところですね👀👀
脩子内親王としては複雑かもしれませんが、彰子さまはきっと気にかけてはいたと思うので
もしもドラマで源氏物語を通した二人の雪解けがあったりしたら、私は泣いてしまうかもしれないです😭
そして推しの菅原孝標女の話題があがり、嬉しくて思わずコメントしてしまいました😂
現代を生きるオタクとして他人とは思えぬシンパシーを感じる平安限界オタク女子の名前が
極めたオタク女子のきりゅうさんから聞けてテンションブチ上がりです!!
苦し紛れではありますが、寧子ママつながりでなんとかしてドラマに出てくれないかな~😊🙋♀🙋♀
定子ちゃんと一条天皇の子供達の人生も壮大だったとは…清少納言もどんな気持ちで見送ったのでしょう…脩子内親王の人生は謳歌できたと願わずにはいられないです
ほんまやわ、きりゅうさん凄いよね
愛されても、愛されなくても辛いですね😢
今後が楽しみです(*^^*)💕
私は3人の息子共に予定日から遅れ、長男は超ど1ヶ月遅れで産まれました。月🌕ものが40日周期というのもあったと思います。
シワのない完熟児3560g!
きりゅーさん。
こんばんは😃🌃
いつも、楽しく見てます❤
妊娠、12か月は、医学的には、無いです😅
私は、看護師です😃
だから、あり得ませんよね😅
平安時代の、一月が、何日か、分かりませんが、
現在では、40週を超えると、陣痛促進剤を使うか、帝王切開です😅
因みに、妊娠の週は、一月は、ゼロ、1、2、3、で、一月です😮
私もそう思いました。脩子内親王は定子中宮の出家後に授かったお子様なのではと推察します。
じゃあ、一条天皇の子では無い……???😢
人の妊娠期間は280日、つまり9ヶ月と10日。それを十月十日と言ったのは、0が無かったから?閏月もあって、一年が13ヶ月だったりすることもあった暦なら、足掛け12ヶ月くらいなら、なくもなかったりしませんか?
第15代応神天皇(誉田別尊)とその母神功皇后の三韓征伐での出産をコントロールした話し等昔より皇室には出生に関する不可思議話しが伝わっていることが多い気がしますね😮
内親王ともなると釣り合う身分の男子はそうそうは居ないのでそりゃ結婚しにくいですわな。今もそれに近いし。
私の兄は予定日より2週間以上遅れたそうです。お腹の中で兄が大きくなりすぎて、普通分娩では産めず、帝王切開になり、更に母は1週間集中治療室で意識がなかったと。
幸いなことに、兄は元気だったので兄は先に退院して祖母が面倒を見てくれたそうです。
その出産の恐怖から私を妊娠した時、産むかどうか凄い迷ったと言ってました😂
平安時代ならもっと大変そう。
定子様は3人目の子供を出産時に亡くなったみたいですが、元々難産体質なんですかねぇ〜(そんな体質あるのかしりませんが😂)
いつも楽しくお勉強をさせて頂いてます❤
あの~
今でも女性の生理って日数も周期も
個人差があったりまた不順だったりもするので昔は
正確な産月は分からなかったのではないかと思うのです
中宮彰子は敦康親王を大事にしていたし中関白家にも気を使ってたと聞いたことがあるので脩子内親王が隆家の方に行ったと知った事は
そんな軋轢が続くもんなのか、と思いました
まぁ、知らなくて良いような余計な情報も入ってきたでしょうけど…
チャンネル登録しました😊
歴史上の人物を、まるで知り合いのように思いやるやりとりが最高です❤
‼️ビックリした‼️
内親王の結婚問題
現代にもあるじゃ無いですか?
表向きは、自由と言っていても・・・的な
子供の産み月の問題、まさに『源氏物語』内にもありますよね。
宿下り中の藤壺を光源氏が妊娠させてしまい、内裏にいた時の妊娠という事にするけど、中々生まれなくて怪しまれてしまうという。
物怪の仕業という事で有耶無耶で終わってしまったのが何とも平安時代らしいなと思っていましたが、これも元になった宮中での噂やエピソードが実際にありそうな気がします。
遅くに産まれて…は弁慶ですよね。
定子さんはストレスで生理不順になって産み月の計算が?だったのかも知れませんね
色々調べていたら生理は穢れとされて、月経中は宮中に上がれなかった。と言うのを見つけたのですが、それは中宮も同じ?だとすると、定子の宿下がりは懐妊は流言飛語か誤認で、実は月経だった?
あとは出生日が真実だとすると、受胎が5月初め(旧暦)。宿下がりの理由が本当に懐妊だったとすると、流産した後すぐに妊娠した可能性も・・・。妊娠期間12か月と言うのは、事実誤認か明かせない事情、記録自体に何らかの意図があると思いました。一条天皇が溺愛したくらいだから自分の子だと確信があるのだろうし、掟破りで忍んで逢ったのかも。なんて思いました。
海外とかでも妊娠期間を長く言うのは親の愛情と聞いたことが有りますし、仲が良すぎても子どもが出来づらいと聞いたことが有るので分からないですよね~(笑)ちょくちょく一条天皇が来ていたから、後者に1票です(笑)❤
定子が内裏から下がった正確な日付がわかりませんが、少なくとも長徳の変が起きた日から脩子内親王の生年月日の間は355日(たしかに妊娠12ヶ月目と捉えることができる)も開いているので、動画内で仰っている通り、実際は西暦996年4月頃(長徳の変から二ヶ月ほど後)、実家に戻ってからの懐妊だったんじゃないかと思います。
平安時代の暦は現代と考え方が違うし、日本紀略に書かれている「懐孕十二ヶ月」が妊娠期間としての12ヶ月(仮に満12ヶ月だとして336日)なのか、暦の12ヶ月間(約一年)なのかはわかりませんが、いずれにしても12ヶ月は長すぎます。
初産で予定日を超過するのはぜんぜん珍しくないですが、別の方が仰っている通り胎盤機能の低下(赤ちゃんに栄養が届きにくくなる→赤ちゃんの状態が悪くなると羊水の中で便をしてしまう→分娩時に吸い込むと呼吸状態が悪くなることがある)とか、あと赤ちゃんが大きくなるので分娩時に肩が引っかかって腕の神経を損傷する、などの色んなリスクがあります。
そうならないように、だいたい分娩予定日を2週ほど超過したら誘発や帝王切開などが必要になります。平安時代にそんな処置無かったと思うので12ヶ月もお腹にいて生きて産まれてくる可能性はほぼないと思います。
実資さんの出家したのに…出家したのに…と
愚痴り出してからの日記にお書きにと鬱陶しがられるシーンあって欲しいw
源氏物語の藤壺の宮も予定をかなり遅れて生んでますね。結局天皇の子ではなかったですが。
私は生理不順で妊娠発覚2ヶ月前から生理が無く、出産予定日が10月の末くらいから11月の中頃と言われました💧そして11月中頃に出産しましたが何日遅れたのか分からなかったです💧
脩子内親王にとって枕草子は父母を偲ぶ形見のような存在だったのかもしれませんね…
気の毒な事にたぶん道長さんにとっては「大人の事情」で生まれてほしくなかった三人だったと思います。
動画は編集して文字や家系図を出してくれるから理解できるけど、歴史を全く知らない私がもしく〜さんやラットさんと同じようにきりゅうさんのお話をいきなり聞いたとしたら登場人物の関係性など理解するのは難しいでしょう😅
ドラマのおかげで俳優さんに置き換えられるので(実資=秋山さん)この先の話もそう脳内で変換すると思います😁
く〜さんの定子さんが出家したのに後々子供ができるという疑問、同じくです
きっと今後ドラマで描かれるでしょうから楽しみです❤
ふと、眞子さまが結婚して皇室を離脱されましたが清子様とは違う離脱で、平安時代なら出家に近いのかなと勝手に想像してしまいました
あと、脩子内親王が12ヶ月で産まれた特殊な子というより、特殊な子と周りがしたくて…. という事はないかな?
記録に残っているならそれはないですね😅
毎回長文コメントすみません🙇♀️
また次回も楽しみにしております❤
今回も楽しく勉強させていただきました!
私も昭和生まれですが、予定日より1ヶ月近く経っても陣痛が来なかったので促進剤で産まれたと母から聞きました。医師から最終生理開始日を間違っているのではないかと言われたそうです笑
出生時の体重は普通。やはり母の勘違い?でも稀にありそうですよね。
毎回の動画、ほんとに楽しく観ています😊
今回の動画とは関係ないのですが、メンバーシップになるには、どうしたらいいのでしょうか?
チャンネル登録とは別ですよね?
動画の下の「メンバーになる」をクリックしていただければ……
直々に返信、ありがとうございます❤やってみます✨
妄想アラート好き
脩子内親王は母定子に似ていますね
若い頃に両親と弟妹を亡くて
出家して不運な中でも
文化的な事に精通して心豊かな余生を過ごされたのでしょうか
内親王が独身を貫くことが多かった件ですが....
単に身分の高さと教養の釣り合うお相手を見つけることは難しかったのでは?
多制度であったから、お相手の男子も気位高くお育ちになった内親王が妻だと妾も持ち辛いとか色々あったのでは!?
いとこ位の親戚なら恋愛とかできるかも。でも、近しい親戚でもなければ内親王に恋愛の文を送る勇気ある人って?
いたんでしょうか?!
ジャッキーチェンが12ヶ月お母さんのお腹の中にいて生まれたって聞いたことがあります。
確かジャッキーチェンもお母さんのお腹の中に12ヶ月いて、出生体重が5680グラムもあったとか😂
私がお産した時(20年前)は、妊娠41週6日(予定日から2週間)までに産んだ方が良いと言われましたが、お産が進まず入院して促進剤を打ち、42週目にようやく生まれました。当時、妊娠10ヶ月の妊婦健診で医師がエコーを見ながら「胎盤が光ってるな…」と呟いてて意味がわからなかったの帰宅後に調べたら、「胎盤が退化してくるとエコーで光って見える」ということがわかって、お腹の子は大丈夫なのか⁈とすごく不安になりました。でもよく考えたら、お腹の中でじゅうぶんに育ったから胎盤が退化するんだろうと思うので、その目安が41週までなんでしょうね。
42週以降は罹病率、死亡率が高くなると考えられているのに、昔の物語では2年も3年経ってから生まれるというのはやっぱり特殊な子と思われても仕方ないかもですね。
我が子42週目に生まれましたが、スクスク育ち今は大学生です。
脩子内親王は早くに肉親を皆失い、家族関係では孤独だったろう。内親王でも結婚している人はいるので、やはり後ろ盾のない境遇というのは、辛いなあとも感じる。29歳で出家し53歳で亡くなる間の文化的生活が、少しでも彼女の寂しさを紛らしてくれたらと思う。
脩子内親王とは裏腹に、倫子は今回も大活躍だった。帝と新女御の親睦会開催を企画するバイタリティには強かさとは違う生きがい感も見受けられ、さすがの道長も感心しながらも敵わないなあという感じで接していた。道長の意中の人を知ってしまったら、どんな反応を示すか(狼狽えつつも如才なく対して、本音を隠し策を練るに1票!)今から楽しみだ!!
更級日記の作者菅原孝標女の親戚がこの脩子内親王に仕えていて、そこから孝標女は貴重な書籍を借りていたとは、平安時代の貴族の世界は意外と狭いですね!
いつも楽しく拝見させていただいております。
12:26のテロップに誤りがありましたので
お知らせいたします。
(誤)966年→(正)996年
きりゅうさんの話、本当に勉強になります。
応援しています。
最近見始めて、きりゅうさんのお話がとても面白いので登録しました✨
今も継承権問題で、内親王結婚したらもう皇籍じゃなくなりますよね。それはどうかなと思いますが…継承人が少ない今内親王の子供でもいいじゃないかとは思うけど色々ややこしいよね。
今回も勉強になりました!
内親王は生涯独身、生まれは逆境ながら、脩子内親王は賢く生き抜かれたんですね。
内親王と言えば、源氏物語のボーッとした女三宮を思い出しますが、一条天皇も物語の朱雀院並みに、この宮の心配をしたんでしょうか。
更級日記で源氏物語もらって喜ぶくだりは高校の古典の授業でやったので覚えてます
仏像作って源氏物語ゲットを祈るってなんやそれって思ってましたけど、このチャンネルで平安時代の話聞いてたらそんなこともあるのかもなと思い始めてます笑
今回、定子ちゃんが、出産前日に、清少納言と一緒に、白い服でしたが、あれは、もう出産に備えての白い着物?喪中開け近くで限りなく鈍色が白に近づいたのかと思いました。
最初思っていたききょうさんと違う今のききょうさん。最初の登場から今の姿は想像できませんでした。定子は何一つ悪い事してないのに出家するほど世の中に失望するなんてほんとにかわいそうだなと思いました。そのかたわらで道長妻の倫子さんみたいな人はほんとに運が強いとしか思えません。
く~さんの質問のおかげで私もスッキリしました(*'ω'*)
一条天皇は定子愛おしさ💕のあまり,出家しても定子の元に通い3人の皇子女👑👶👶👶をもうけましたが,残念ながら定子は3人目のお産で亡くなってしまったので,もし一条天皇が出家した定子さんをそっとしておいたら,世間からの猛批判にもさらされずにもう少し長生きできたのかも?と思うと…定子さん可哀想な気がします。
産み月が長引くということは生まれる子供もその分だけ成長するということなので、帝王切開などをしないと生まれてこれないです。
平安時代は医療が未発達なのでご懐妊の判断が間違った可能性はあります。
参考になれば幸いです。
修学院に住んでた内親王も確か、独身で、父親に溺愛されてて風流な生活を送っていたのではなかったでしたっけ? 昔修学院を訪れた時に、ガイドの方がおっしゃっていたような、、、
はんにゃ金田さんのRUclips見ましたか?ゲスト松村邦洋さんで、今回なかなか面白い❗️かしましさんと合わせて見たらメチャ面白いと思いました。解説楽しみにしてます🙏
今回のお話しもとても勉強になりました。
きりゆうさんの後ろネコちゃんの写真、
ゆうくんですか?
今回も楽しく拝見しました。12:26頃の定子の出家した年の説明文が966年になっていますよ。(きりゅうさんのお話や字幕は996年。)
ご指摘ありがとうございます!
あの時=一度内裏から下げられた定子が、道長が手引きしてくれたのでこっそり内裏に戻れた時、というわけで、その結果定子の懐妊につながったわけで、だから道長は帝定子に情けをかけてはいけないと思ったんではないかなあ?だんだん道長が帝に対して冷酷になってきましたね。
2か月遅れで出産云々というのは、源氏物語で藤壺と光源氏の密通で冷泉天皇が生まれたくだりのヒントになっているのかもしれませんね。
内親王はなかなか結婚できない、というのは今の皇室にもあるある、の話だと思いました。
道長が中関白家を追撃?と言うよりは、女院様が息子を奪った定子ちゃんNGと感じましたが、如何でしょうか?
でも孫は可愛い❤は、今でも嫁vs姑のエピソードで出てきますが、吉田羊さんがこれを本気で演じたら怖い😱けど見てみたい😅
一条天皇も、定子とその身内を翻弄した原因の一つなんだなと思いました。ドラマの中では、まひろとの恋愛や結婚に関して潔い道長と比べると、一条天皇と定子の二人の様子がグダグダ過ぎて見ていられないです😔
武蔵坊弁慶( 平安末期に誕生 )は、
生まれるまで18ヶ月も母の胎内にいたと文献に記されていますね。
また、文献によっては3年もという話も。
弁慶については、
かなり創作が含まれていると言われていますが、
脩子内親王の誕生日に関しては
きちんと記録が残っていて正確なはずなので不思議ですね?🤔
それから、内親王は、
源氏物語の女三の宮のように、
帝に許されれば結婚できると思っていましたが、
違っていたので
なんだかお気の毒です。
内親王の婚姻はともかく、出産はリスクが大きすぎるのでは?
当時の婚姻は現在以上に世継ぎを求められるでしょうし。
皆さんが仰っている様に42週以降は羊水の減少や諸々のの原因で児の呼吸障害、巨大児等々リスクが大きくなるので普通分娩は難しいと思います
なのでやはり計算が間違っていたのではないでしょうか?
内親王のトコの完全版は、自分の知らない母親の幸せな様子を垣間見れる書として大事に大事に読んでいたと思っています
自分も若い頃母親を亡くしているので、笑っている写真を見るだけで泣いてしまいますよ
12ヶ月身籠る実例があったかは知りませんが、それを紫式部が知っていたら藤壺の宮の長過ぎる懐妊期間に流用した可能性はありますかね。
いつも分かりやすい説明をありがとうございます!
産科にいましたが、42週を過ぎると胎盤が石灰化していました。し、歯が生えて生まれてきたベビーちゃんもたまにいました。生理不順で最終月経が分からないときは、現代はエコーでベビーちゃんを測定して、予定日を計算したり、大腿骨の長さで、予定日修正したりしていましたよ。
でも、意外と人によっては胎盤も劣化しないでそのまま産める可能性もあるのでは?と思いました。。
父親違う説を是非推したいです、新しい発見でした
生まれるまでに12ヶ月…いやいや驚いてはいけません.
釈迦は3年3月、老子はなんと80年…😲
(コレは落語の世界ですが)
山吹の花は実がならない事(成就しない)で使われると聞いた事があったので、別れを示してるのかと思いきや、、、山吹→お坊様→梔子色→口無し、、、すごい!!と思いました!
定子様はもしかしたらどっちでも取れるように送ったけど、教養の深い清少納言なら読み取ってくれると思って送ったのかなぁと思いました。
それにしても平安貴族すごいなぁ、お馬鹿な私には絶対生きていけない世界だわ😂
昔は閏月があったと聞きます。もしかすると1ヶ月が今より短いということはないでしょうか?
それを含めて計算したうえでの12ヶ月でしょうか?
きりゅうさんにお聞きしたいのですが上品、下品という言葉はその一品、二品が基になってる言葉ですか?
たしか仏教用語だったと思います。
死後に極楽浄土に行くパターンにいろんなランクがある、ということだったかと。
「玉のような」は男の子にかかる言葉ですね。
血統の貴重性を高めるためもあって、奈良時代くらいまでは「女性皇族の結婚相手は天皇か皇族のみ」と制限されていたようですね。
臣下と結婚した場合、天皇も父親としては大事な娘の婿や子ども(孫)を蔑ろにはできないし、それを利用して好き勝手する者が出てきたら厄介だしで、内親王の結婚制限はトラブル防止の意味もあったのかなと思います🤔
ちなみに、道長の祖父である藤原師輔には内親王が3人も降嫁されていたから驚き😮
三条天皇が出てるなら、その皇女の当子内親王(伊勢斎宮)と藤原道雅(伊周の息子)も出てこないかなとワクワクしてます😊
道雅エピは出してほしいですね~💖
師輔と康子内親王の場合は、大鏡だと妊娠発覚からの結婚です。村上天皇は同母の姉を結婚させるつもりはありませんでした。仕方なく認めました。
内親王は生涯独身の方が多いと言うお話でしたが、源氏物語の中の藤壺の女御は、先帝の四ノ宮だった気がするのですが、藤壺の女御のように入内する方もいたんですか?何か、理由があるのかなぁと、ふと思いました!いつか追って沙汰してください😂
後見人がしっかりしてれば、独身を貫く事が多かったようですが、源氏物語の柏木の未亡人女ニ宮に夕霧との縁談我きた時に彼女の従兄弟(大和守)が「任国に戻らなければならないです。あなた様の面倒はずっとは見られません」と言って夕霧との縁談を進める。女ニノ宮のような内親王でも立場の弱い女性は、結婚したようだ。ちなみに藤壺も母親である后がなくなったので、後見が弱くなり入内した。
入内した人はちょこちょこいますし
皇后(中宮)になった人も…これから「光る君へ」にも出てくるんではないでしょうか。
結婚する場合、多くは天皇や皇族男子で、特例として藤原氏摂関家、という形。内親王クラスでなく女王(天皇の孫や曾孫とか)クラスの女性だと一般貴族とあまり変わらないようですが。
源氏物語に父親と母親への想いを重ねたりしたのかな